塀越しの鉄塔
雪もここまで降るとそのエネルギーたるやものすごいもので、今年の大雪には自分自身のエネルギーもすっかりそちらに消費されてしまった感がある。でもそんな中でも、いや逆にそんな中だからとささやかに雪の写真を撮ってblogに載せていたら、今月はシリーズのように連日続いた。
実況中継のようなモロなやつではなく、視点をずらしてということさらの意識もなく、日常のささやかな楽しみとして撮っていたものだったが、評判がだいぶいいようだ。雪だからだろうか。先日も某社長が“こないだの落雪注意ってやつあれいいねぇ”とわざわざ言ってきたりした。 だからそうした写真のindexを作ってみることにしたのだが、でもちょっと言葉遊びをしたくなり、タイトルは7文字統一に、かつ体言止めにして新たに仕立てている。カッコ内は原題というか、掲載当時のタイトル。
■ 2018.02.06-02.13 雪の写真/index
2018.02.13 本日の雪だるま (同左)
2018.02.12 駅舎と雪の表情 (長岡駅と雪のかたち)
2018.02.11 妻有の雪アート (10年前の今日も雪) ※番外編
2018.02.10 落雪注意の看板 (注意喚起のはずなのに)
2018.02.10 日の光と雪の形 (長岡造形大学卒業修了研究展-02)
2018.02.09 外部階段の積雪 (長岡造形大学卒業修了研究展)
2018.02.08 雪による再変換 (変換された白いオブジェは)
2018.02.06 上書きされた役 (白いオブジェへの変換)
実況中継のようなモロなやつではなく、視点をずらしてということさらの意識もなく、日常のささやかな楽しみとして撮っていたものだったが、評判がだいぶいいようだ。雪だからだろうか。先日も某社長が“こないだの落雪注意ってやつあれいいねぇ”とわざわざ言ってきたりした。 だからそうした写真のindexを作ってみることにしたのだが、でもちょっと言葉遊びをしたくなり、タイトルは7文字統一に、かつ体言止めにして新たに仕立てている。カッコ内は原題というか、掲載当時のタイトル。
■ 2018.02.06-02.13 雪の写真/index
2018.02.13 本日の雪だるま (同左)
2018.02.12 駅舎と雪の表情 (長岡駅と雪のかたち)
2018.02.11 妻有の雪アート (10年前の今日も雪) ※番外編
2018.02.10 落雪注意の看板 (注意喚起のはずなのに)
2018.02.10 日の光と雪の形 (長岡造形大学卒業修了研究展-02)
2018.02.09 外部階段の積雪 (長岡造形大学卒業修了研究展)
2018.02.08 雪による再変換 (変換された白いオブジェは)
2018.02.06 上書きされた役 (白いオブジェへの変換)
一昨日に「看板としての役割を雪で上書きされて失い、白いオブジェと化した」立看板の写真を載せていたが、今日同じところを通ったら連日の大雪で完全に埋まってしまっていて、オブジェに変換されたはずがその存在さえ消え去っていた。いつのまにかさらに変換したということか。
大雪にエネルギーをとられ消耗しまくっているが、こういう光景の偶然の発見が美術視点でとても面白く、せめてもの救い。
大雪にエネルギーをとられ消耗しまくっているが、こういう光景の偶然の発見が美術視点でとても面白く、せめてもの救い。

ギャラリーみつけ。1階のエントランスから奥のエレベーター側に向かう通路は全面ガラス張りになっていて、その短い通路にギャラリーの若いスタッフがイルミネーションを飾り付けた。そこで撮ってみたのが上。ガラスの反射を使って撮っていて、トリッキーな味も出ていて気に入っている。だからカテゴリーは最初「ギャラリーみつけの日々」にしていたのを差し替え、「今日の作品」である。
ちなみに書いておけば多重露光ではなく、一発撮り。
長岡造形大学にて
反射と幾何学的な関係が面白く、写真「作品」として。

反射と幾何学的な関係が面白く、写真「作品」として。

取り付けられたばかりのガラスはあまりに綺麗で、「ガラス注意」という貼り紙がないとその存在に気づき辛い。だから、陽が射し込んでの「影」を捉えてみた。綺麗過ぎて見えなかった存在を見たということか。

小さな板があったことをいいことに突然ボールペンで描いてみたキリン。
年賀状でも干支のひつじを描かなかったくせに、夏におこなうことになっている「動物がテーマの企画展」の企画を考えていたらちょっと動物の絵を描きたくなったのだ。本人的にはなかなか気に入っている。 いい加減に描いているように見せつついちおう緊張してペンを走らせているのは、蛭子氏がいつか言っていた極意そのまま。ふだんはミニマルな作品ばかりだから、たまにこういうことも新鮮ではある。
よせばいいのにかぐや姫の「神田川」を思い出し、二十四色ではないがクレパスを注文したので、色も入れてみようなんて考えてしまった。しまうまを描けばストライプカラーでよかったが、「しまうま」のかたちは絵としてうまく思い出せなかった。

「閉鎖中」。
載せたのに特に意味があるわけではなく、特に作品化しているわけでもなく。
ここから外に出たいと思っても出れなかったという、ノンフィクション。

次の作品はたまには(といっても、これまでまともに使ったことがないが)和紙を使ってみようと思い、まずは実験を試みている。
「描かないこと」を「描けるか?」とか、初期の現代アートの発想演習みたいなことが頭にあり、昨年あたりは「描かない絵画」なるものに熱中して創っていた。和紙を買い求めたのも発想はその延長線上にあったのだが、実験だからと色を塗って描いてみたわけで、右上はそのときの図(一部分)。
いい感じで試作(&思索)はすすんでいたと思っていたが、春の展覧会の業務関連やらなんやらここのところ急激に忙しくなっているから、時間の確保とかやりくりがたいへん。

私自身の作品から。
写真作品。一週間前の記事に倣って「non-titled 今日の作品」とタイトルをつけたものの、撮影自体は1990年代で、20年以上前の「ネガフィルム」時代のもの。いま見ても「これはかなりいいなぁ」と思えているが当時もそう思っていたらしく、キャピネ版にわざわざ引き伸ばした紙焼き写真が現存している。
部分的に掘りかえされた工事跡アスファルトは色が違って幾何学的構成になり、「止まれ」は新しく書かれたばかりで施工時の補助線が見え、写真平面上でそれらが一点透視法的パースペクティブで完成している。などと、撮影当時(20年前)は無意識に面白がって撮っていたものを、いまは意識して眺めるわけだ。