カテゴリを「
佐藤秀治氏のレビュー」としてみたが氏が書いた論評ではなくて、逆に今回は氏の作品へのレビュー。いささか古い出典であるが15年前のもの。
氏の作品について長岡市
ギャラリー・イーズでのインスタレーション(2007年)の画像を昨年末に挙げていた。菊の支柱竹を縦横に組むというこの作品を取り上げた理由を書けば、とても好きな作品であり、大作だということがまずあったけれど、作家自身が2008年はじめの「新潟現代美術家集団GUNの軌跡展」の際に執筆・発行した小冊子「私の“青の時代”」に於いて「先回のイーズでの作品は、私が私に誇れる作品であった」と明快に記していることも大きい。
この素材でのインスタレーションは2007年
ギャラリー・イーズのほか、屋外の大階段広場・踊り場を舞台とした「
弥彦・野外アート展」、美術館庭園の緑の中に展開した翌年の「
今井美術館個展」と、特性を大きく違えての三会場でおこなわれていて、下に載せるレビューはその今井美術館個展に関し(同様にこの場所でインスタレーション個展をおこなった)前山忠展とあわせ、新潟日報紙の文化欄に大きく取り上げられたものになる。
竹や角材配置「空間」が作品
変化する新たな視界 ~佐藤秀治・前山忠 各々のインスタレーション個展
評:外山文彦
●2008年10月9日 新潟日報文化欄掲載
インスタレーションという表現手法がある。直訳すると「設置」。ある空間のなかに事物を置くことを意味するが、単に置くだけでなく、天井、床、壁など、それを取り巻く周囲も作品の要素とする。空間全体を作品とする点でオブジェとは異なる。
「大地の芸術祭」をはじめ近年の国際展をみると、絵画や彫刻、いわゆる平面や立体といった枠にとらわれない表現が主流であり、映像やパフォーマンスなどとともにインスタレーションは有力な表現スタイルになっている。見附市・今井美術館で先月今月と相次ぎインスタレーションによる注目すべき個展が企画された。佐藤秀治(長岡市)、前山忠(上越市)という、ともに県内現代アートの草分け的存在の作家によるものである。
佐藤秀治展(2008年9月5日~14日)は、菊の支柱(竹製)を縦横に組んでの作品。立体構成としての造形美というわけではなく、自然界でクモが巣をつくるように竹を1本ずつ紡ぐように組む。この素材自体でいえば、昨秋の弥彦野外アート展に端を発し、その翌月に長岡のギャラリー空間で室内インスタレーションへと昇華させたものと同じであるが、作品の表情は軽やかに変化する。現場制作時の空気や時間をとりこんでのその味わいの差異は、インスタレーションならではのものといえるだろう。
開催中の「前山忠の視界2008」(※10月3日~26日)は、タイトルが示す通り「視界」をコンセプトとする。「何気ない日常の情景や風景のなかで出くわす、何か目をひく場面。その一部を意識的に切り取ったり、持続させるような仕掛けをしたい」と自身が語るように、近年ライフワークとして追究するテーマである。
美術館ギャラリー、庭、旧工場跡である別館の三会場を駆使し、それぞれで趣向を違えたインスタレーションを行っている。ギャラリー(室内)と庭(屋外)で使う素材は同じもので、3.5センチ角、長さ4メートルの角材、合わせて約百本である。
庭ではその角材を、既存の彫刻や石、立ち木、建物の外壁、竹林など、もともとそこにあるものと相互に関係させながら、一周、巡らせるように配置する。
前山は、木のフレームを設置して新たな視界を呈示する作品を各地で展開しているが、ここではそれを連続化させる。動きのあるダイナミックな構成で、シリーズとしての新たな局面もそこにみえるが、鑑賞者がその「場」に遭遇することで新たな視覚体験をさせる「仕掛け」にこそ作家の真骨頂があろう。
一方、ギャラリー空間では、建築の小屋組みを模したように角材を配置して俯瞰的にみせる。見せ方としての面白さもあるが、よくみると床や壁に対して意図的なズレがあり、角材も互いに平行ではない。直方体の建築空間のなかでのそうした微細なズレの蓄積が、庭作品とは違う「視界」を意識させる。素材の違いがない分、「場」の特性がより鮮明に浮き彫りになり、インスタレーションとしての魅力にあふれている。
(評者:フリーキュレーター・美術作家/※掲載時の肩書き)
佐藤秀治氏のレビュー、そのvol.5である。今回は約20年前の、2002年に新潟日報に寄稿された一文。
論考の対象は「原生」シリーズで知られる柏崎在住現代美術作家の個展。会場のスペース的な制約や、(当時作家が好んで使ったゴム等の)匂いを発する作品がNGなカフェ内展示ということもあり、ここでの個展は(原生シリーズではなく)紙作品をフレームに入れての作品群となる。「戯(ざれ)」と題しての、写真を基にしてのミクストメディア。
大作の、力で迫り圧倒するような、そんな作品発表の多い作家に対して、会場スペースの制約(言い換えると=特性)は逆に、今からすると珍しさ(=貴重さ)も生むかもしれない。
写真を素地に戯れ事の世界 ~関根哲男展
評:佐藤秀治(美術家)
●2002年10月1日 新潟日報文化欄 掲載
長岡市・カフェ&ギャラリーZenにて2002年9月24日~10月6日に開催
シリーズ「原生」で、新境地を確立した関根の仕事は、特大の画面に密度の高い作り手の行為を、集積してみせることであった。その重厚な表層が奏でる旋律は人の営みの崇高さとともに見る人を魅了した。また関根は素材や支持体に重きをおき、ゴムや化繊を巧みに扱う作家である。際立ちは、気が遠くなるほどの痕跡の凄まじさである。関根の固有な世界は、まさに「表現が思考を超えた瞬間」を明確に提示している。
思考と表現は、アーティストにとって大きな命題であり、「常に思考無くして、表現は生まれ得ない」のである。現代美術の作家たちは、日常の中で故意に、ものと戯れ、また敏感に事象に反応し、純粋な思考の遊戯を楽しんでいるのである。
それは作家たちのプライベートに属する営みで、表現の源流ともいえるものである。こうした反復の中で、物事の在り方や関係などを吟味、思考し、新たな表現の意味や価値を探っているのである。鍛錬や修練とは異なり、余興、即興芸に似た味わいを含んでいる。
今回、関根は身辺を見渡して写真を撮り、それを作品の素地として、後にアクリル絵の具でドローイングを施した非日常的作品=写真=を出品している。タイトルに「戯(ざれ)」の一文字を充て、大・小合わせて34点。知られざる作家の創作意欲をかき立てるエキスを探し出し味わってほしい。

戯 2002
昨年11月から
佐藤秀治氏のレビューと称したカテゴリーを設け、
氏が新聞等に発表した原稿をひとつの記録としてささやかながら掲載しているが、今回はそのvol.4。(15年前の記事です)
虚と実のカンバス間を往来 ~外山文彦展CANVAS
評:佐藤秀治 (美術家)
●2008年7月11日 新潟日報文化欄掲載
「新しい表現」に携わることは、新作での発表が常であると思われ、そこに顕著な変容がつかみづらく期待を裏切られたと思うことがある。つまりせっかちな人もいればゆったりと歩みをすすめる人もいるのに、鑑賞者は依然として高所から作品を吟味すること、「いい悪いの判断」に執拗に固執することがある。作者の求める方向や課題、こころの揺れに波長を合わせ謙虚に読み取ってみたいものである。
外山作品の印象は、ぶれない仕事の継続である。一見しただけでは前作との異なりを見いだせないくらいその具体的変化は薄い。作者の関心はそこにはないということである。作品構造は、カンバスの裏地を選び支持体としていること。さらに塗り込まずに生地を見せるところと満遍なく彩色した二種二面の分割再構成画面である。常に複合面であるということ。一作品はおおむね幾つかの単体カンバスでの組み合わせとなっている。この点だけでも数年間変わらず取り続けてきたスタイルである。面白いのは異なる面の主従の関係を決めないこと、観る側にそれを委ねているところである。
「モーニングス」シリーズを例にすると、四つの単体から構成されていて、その一部は同型を反転し再構成していることに容易に気付かせられるのである。そこでいや応なく自分の強い意識でさらに元に戻して見ようと試みる。作者が提供した実のカンバスと仕組んだ虚のカンバスの間を往来することになる。今作品の作者の意図は他に二点仕組まれている。会場でその揺れを読み取っていただきたい。
記事index/
2022.11.03
vol.1
蔵ISM・クライズム-蔵の中での現代アート-伊藤希代子、関根哲男、前山忠(2004年9月14日 新潟日報文化欄)
2022.11.27
vol.2
蔵・展―5人の手法(2003年9月1日 新潟日報文化欄)
2022.12.29 記録としてアップすること、および氏の一作品 (年末の“まとめ”記事として)
2023.01.18 vol.3
舟見倹二の軌跡展~油彩の変容から~(2009年3月30日 新潟日報文化欄)
昨年の「年末まとめ」記事のなかで、
当年はblogカテゴリーに「佐藤秀治氏のレビュー」という項目を新たに追加したと記した。昨年はアップした2稿のほかにもう一つ以上と思っていたものの時間の不足で出来なかったことも、あわせて記していた。
ということで氏のレビューの3つ目がようやくのアップとなる。執筆順に載せていくわけではないので前回の2003年2004年から少しとび、2009年。
「舟見倹二の軌跡展」と称されたもので、美術家舟見倹二(1925-2020)が1975年まで発表していた「油彩作品」とそれ以降に始める「シルクスクリーンによる版作品」の二つをそれぞれ、新潟県中越地域の2会場に分けて(ほぼ)同時開催したという展覧会。シルクスクリーンのほうは1977~1983年の初期のシリーズに絞っており、総体として「変容する抽象表現1955-1983/油彩から版画へ」とサブタイトルがつく。
油彩のほうは見附市の今井美術館、シルクスクリーンの版作品は長岡市のギャラリー宮本での開催である。
深化させたゆるぎない思考 舟見倹二の軌跡展~油彩の変容から~
評:佐藤秀治 (美術家)
●2009年3月30日 新潟日報文化欄掲載

近年の舟見作品の発表形態を顧みると、新作で個展を継続する他に大規模な回顧展や限定したシリーズや分別した表現様式にと意欲的な独自の見せ方を顕著にしている。今回も版画作品を別会場にしつらえている。ある表現の一時期を切り取り同時に再公開するこだわりの試みである。しかも比較鑑賞の強制をするのではなく、用意した二極の場に距離を置いて記憶を和らげる配慮をしている。単独で二度楽しんでいただく意図もあるらしい。
自身の長い表現活動のなかで、そのつど真剣に取り組んできた痕跡が、まさに等身大に重奏するテーマを今日に継承し形成している。繰り返し積み重ねた時間と技法、暖めたり、つきつめたり、解体したり、その結果として深化させてきたゆるぎない思考が、作り手の存在証明となっている。自らの表現がそれぞれの時代とともにどのようなものであったかを確かめたいのではなかろうか。鑑賞とは他者である作者の思いにこころを重ねる行為である。何より楽しみたいのは仕掛けた本人であり、その意図を探りながら是非追体験したいものである。
二十五年間の抽出した抽象作品群はその変遷で、幾度となく作風は変容した。しかし、それは色調や技法が表面的・視覚的に変わり見えるのであり、一人の作家が生み出した作品である以上、当然その根底には脈々と個的な本質は生き続けている。舟見は今、油彩の艶と感触を再認識し、画面と格闘した自由な精神と醍醐味を味わおうとしている。作家として、よりビュアになること、そしてそこからまた新たな手探りを始めること、それが本展に込めた願いであるといえよう。

余談のように書いておけば、上の展覧会案内のデザイン・制作はアトリエZen
今月頭に話の流れで
長岡での約20年前の現代美術展「クライズム」についての佐藤秀治氏のレビューを掲載したが、同じく氏が書かれたその前年2003年の論評も紹介することにしたい。またこの機会に氏の論評活動についての
カテゴリーを新しく設けることにした。
その2003年の展覧会は、2004年の「クライズム」展と同様に「蔵のなかでの現代美術」を基本コンセプトとしたもの。
その頃長岡に出来た蔵ギャラリー(ギャラリー沙蔵)を使うということ、数名の新潟県内在住作家の作品で展を構成することも共通するが、作家選定の意図は異なる。
2003年の「蔵・展」のほうは5人展という形態で、うち3人の男性は現代美術のフィールドで活動していた作家だったが、女性お二人のほうは(現代美術が市民権を得たいまだと捉え方も随分変化があると思うけれど)当時だと特に現代美術の枠では捉えられることのなかった、工芸作家の山田さんとイラストレーションの若手作家トミナガさん。いずれもふだんの作風を見ていて、現代的なセンスや空間への意識も高くて面白いと思っていたから、ぜひ一緒にやろうと発案した企画となる。
下記レビューは新潟日報文化欄に掲載されたもので紙上では「
見る楽しみ あらためて提示」と見出しが付けられている。
[論評]
蔵・展―5人の手法 (企画:アトリエZen)
評:佐藤秀治 (美術家)
●2003年9月1日 新潟日報文化欄掲載
長岡市ギャラリー沙蔵にて2003年8月29日~9月3日に開催
会場は大正時代の蔵をリニューアルしたギャラリーである。喫茶もあり、開廊わずか1年半で評判も高い。案内によると今回は、「同時代表現を思考する作家シリーズ」の初回とある。当然5人の仕事を並べて紹介するのでは意味がない。仕掛けた「展」そのものもひとつの表現として問いたいらしい。「展」全体で、一方個の作品として、アートをどのように見せていくかということは作家たちの命題でもある。
事前に5人の仕事をリサーチして、「単純に1掛ける5にあらず」を構築する。こうした働きかけがなければ、一堂に会することもなかった。ミスマッチとならず、他を融合してしまうのは現代アートの特質でもある。
選抜された5人はそれぞれ違う仕事でその期待に応えている。自然界にない大きな雲形は彩色とともに濃密な自然の香りを発している佐藤昭久。赤い花をキーポイントに透明感あふれる物語を語るトミナガアヤコ。ストライプのカードで壁面にレイアウトする外山文彦。植物の形の残像を隠すことで逆に意識化を図る中嶋均。自然木に鮮やかな布たちを巻き付け、赤い糸と円筒ミラー、織布のインスタレーションの山田初枝。5人が織りなす表現が、蔵の中の空気を温かく重厚なものに変化させている。見ることの新しい楽しみを、鑑賞者に提示しているような展覧会である。
十日町市松代の古民家カフェで伊藤希代子さんが水彩画を展示していることから、松之山のギャラリー湯山に行った帰路に立ち寄ってみる。
今日は祝日の、それも好天の文化の日。人気のカフェだから、そんな絶好の行楽日和のときなんか混雑で入れないかもという“ヨミ”もあったものの、行ける日が今日しかないからと、大箱のカフェではあるし時間を相当ずらして行けばなんとかなるかなという甘いヨミにと結びつけたが、それはやっぱり甘かったよう。着いたら入店待ちのひともけっこう出ていてスタッフに尋ねると時間もかかりそうとあり、ゆっくりコーヒー飲んで楽しむのは時間的に厳しいとあいにく断念した。でもスタッフとのやりとりの際、いま水彩画飾られてるんですよねと話したら、店舗奥から展覧会のリーフレットを丁寧にわざわざ持ってきてくれ、1部くださった。
松代まで車を走らせているとき、伊藤さんは(私のキュレーションで)約20年前におこなった「クライズム」なる現代美術三人展の参加作家だったことが頭に浮かび、今から振り返るに展覧会としてクォリティの高さや意図の面白さに際立ちがあったよなと思い返していたのだが、いただいたリーフレットにも作家経歴としてクライズム出展とあるのを見つける。(企画者としても)感慨深く眺めたわけだ。
クライズムについては佐藤秀治氏が新潟日報紙に論評を書いていて、そのレビューを以下載せることにした。文中には「本県の現代美術の草分け的作家二人に生きのいい若手を加え」と企画のキーのひとつが書かれているが、「生きのいい若手」というのが伊藤さんである。
●
物語の景色から 伊藤希代子水彩画展
~金野とよ子『古民家のひみつ』に寄せて~
10月20日(木)~11月6日(日)/会場:カールベンクス古民家カフェ「澁い
-SHIBUI-」
[論評]
蔵ISM・クライズム~蔵の中での現代アート (企画:アトリエZen)
評:佐藤秀治 (美術家)
●2004年9月14日 新潟日報文化欄掲載
長岡市ギャラリー沙蔵にて2004年9月5日~15日に開催
伊藤希代子・関根哲男・前山忠のジョイントを仕組んだのは、頭文字のI・S・M欲しさではなく、選定後のひらめきからで、新たな意味も加わり企画の面白みを増した。近年では広義の現代美術が市民権を獲得しつつある中、真剣に同時代表現を思考する作家たちに出会いを提供し、見えにくいこうした動向を顕微化していこうとする企画展「ART POINTSシリーズ」の第二弾である。
今回は本県の現代美術の草分け的作家二人に生きのいい若手を加え、どんな
風
を蔵空間に巻き起こすかであり、成功している。
関根は昨年来、既に追究し終わったと思われた「原生」シリーズに再構築を試みていたが、その予想を覆し、二百号余の大パネルに迷いもなく完成度を凝縮して新境地を見せている。一方、蔵の両隅に設置することを前提とした前山の「視界1」・「視界2」は、高さ三メートルの巨大な立体作品である。近年は野外・室内を通して、鏡や自然石などの組み合わせからシンプルさに移行している。よりストレートであるとともに「意味の重層化」を獲得してのことで、コーナーに置かれた木枠の味わいは現場の生体験に委ねることが賢明である。灯り作家という印象の伊藤は、今回も虚実を織り交ぜ空間演出を試みているが、特に壁一面に置かれた前後を削ぎ落としたローソク群は時間と記憶と鎮魂を見事に紡ぎ出している。今後も追体験したい三作家の競演である。
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