上越市在住の現代美術家・堀川紀夫氏の作品“石を送るメール・アート”が生成50年を過ぎ、その経緯を振り返っての作品集が、美術史家・富井玲子氏との協働・共著というかたちで発売になりました。
石を送るメール・アート読本
編著:堀川紀夫+富井玲子/発売:現代企画室
/定価:2800円+税
B5変形・144頁/発行日:2022年10月31日
タイトルは「石を送るメール・アート読本」であり、なぜ“読本”と付いて出版されるのかについて、「通常の作品集のように作品を見るのみではなく、作品を契機として出現した思索や観察や意見をも読むため」の本であると、編者のひとり富井氏が冒頭記している。そこには「本書の準備は、堀川紀夫の《石を送るメール・アート》シリーズにまつわる作品集として出発した。その制作過程で作家の執筆する『覚書』が、当時の作家の考えや数々の郵送や取材に関するエピソードなどを取り込んで、詳細な自筆年譜の様相を呈するようになった」と本の成立過程が簡潔に記され、「単なるモノとしての作品に閉じることなく、《石》を通じて、また《石》から派生してくる言葉を通じて、人と人を繋げるネットワークの生成装置のような役割を果たしていることに負うところが多いのではないか、との結論に至った」と、その大きな理由を示している。
この本はアマゾンでも販売しています。
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クリスティを読んだ。クリスティは二年前くらいに
「これがめっちゃお薦め」だから読めと渡された、殺人事件が起こらない「春にして君を離れ」を読んで以来。久々である。

この「
雲をつかむ死」はアガサ・クリスティの中で有名ではない。
パリからロンドンに向かう飛行機のなかで起きた殺人事件。“後部客席”の最後尾の席に一人で座っていた女性が殺されているのが飛行中に発見される。ドアで区画された後部客席は18席ありそこに(殺された女性以外に)乗客が10人。うち一人は偶然乗り合わせていた探偵エルキュール・ポワロで、他に2人の客室乗務員。乗客は歯科医、伯爵夫人、耳鼻科の医者、令嬢、考古学者等々お約束のようにさまざまで冒頭の1ページ目には誰がどの席に座っていたかを示す「プロメテウス号後部客席見取り図」。クローズド・サークルのミステリーは粗筋だけで古典推理小説傑作のムードが漂う。
なぜ久々にクリスティをと思ったか、しかもさほど知られてない作品をなぜチョイスしたかの理由ははっきりしていて、それなりに面白そうな粗筋からではまったくない。粗筋を見たのは後からのことで、端緒は
プロバブリー商會のblog(ハッピーエンド急行)の書評に興味を魅かれたからである。
具体的にどの部分かというと、長くなるが抜粋引用
(赤字)すると
非常に感心したのは、ポアロが乗客たちの持ち物リストを見てただちに犯人の目ぼしをつけてしまうところだ。ポアロは早くから乗客の持ち物リストに関心を示すが、警察が入手した持ち物リストを一通り見た途端に捜査の方向性は分かったと発言する。刑事は半信半疑で、「まさかこれで犯人が分かったなんて言うんじゃないでしょうね?」と問いかけるが、ポアロは「事件の性格からあるものが見つかるだろうと予想し、そして見つかりました」と言うのみだ。持ち物リストは全部記載されているので私も目を皿のようにして眺めたが、当然ながら何も分からない。
そして最後の謎解きにおいて、ポアロはそれが何だったのかを説明する。それはまったくロジカルかつリーズナブルな推理で、この推理がほとんど真犯人に直結しているのである。この部分を読んで、あの論理的推理の大傑作『Xの悲劇』を思い出した。
この「『Xの悲劇』を思い出した」という所がとにかくミソである。「Xの悲劇」を読んだことのあるひとならこの文脈からすぐ「あのことか」とピンとくるだろうが、至極シンプルな事実ひとつから明解かつ論理的に事件を解き(たいていの)読者をあっと驚かせた、一番最初に起きた電車内殺人事件のことである。
中学生の時に読んだその衝撃を忘れてなく、ならばぜひ読みたいとなった次第だ。
さて「雲をつかむ死」においては謎が2つ呈示される。
ひとつは上記の「ポアロは乗客それぞれの持ち物リストの何に着目し」犯人を導いたのか、という点。もうひとつは、衆人環境にある客室内で犯人はどのように、誰にも見られることなく殺人をおこなえたのかという点。犯行手口である。
解決編を読み、前者の持ち物リストの謎についてはなるほどである。実に鮮やか。
一方、後者の「犯行の不可能的な興味」については、こういう類いのトリックの存在も何かで聞いたことはあるけどもここではけっこう運に頼っちゃうよなというやり方で現実的ではなく、簡潔に言えばつまらない。だからハウダニット(どのように犯行に及んだのか?)への興味ばかりが強いと肩透かしをくらいやすく、この作品が巷間あまり評価が高くないのはそのあたりにもありそうだ。でもわたし的には持ち物リストからの推理の鮮やかさに全体的なテンポのよさもあいまって読後感は悪くなく、面白く読めたといえる。
先のプロバブリー商會氏は「本書の謎解き部分の美点は、前述した持ち物リストからの推理に尽きる。全般に手堅い佳作という印象で、一通りクリスティーの有名どころを読み終えた人がその次ぐらいに読む作品じゃないか」と締めている。
うまく書かれるものと思う。
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雲をつかむ死 (クリスティー文庫)/アガサ・クリスティー
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Xの悲劇【新訳版】 (創元推理文庫) /エラリー・クイーン , 翻訳:中村有希
このマンガが面白い、おすすめだと言われ、だいぶ前に買ってはいたものの読めていなかった1冊をようやく読んでみる。「
女の園の星」。
とある女子高校の国語教師とその生徒たちによる日常を描いたコメディ漫画で、
なるほど、これはけっこうツボで、面白いと思う。冒頭1ページ目に「女の園のくだらないお話」だと記され、そのとおり、学級日誌に生徒が悪戯書きする“絵しりとり”だとか、生徒が担任につけたあだ名がどうとか飼ってる犬の顔に落書きしたとか。そんな、いわゆる“くだらない”と一見思われそうな、女子高生的には何とはない日常からコメディが成立している。
画の雰囲気もそうだし、笑いのツボは佐々木倫子を彷彿させて、感覚がよく似ている。
佐々木倫子好きは嵌るんぢゃないかしら。
立ち寄った書店で清水義範の短編集が並んでいるのが偶然目に入り、近年新しく出しているとは知らず、へーなんて思いながらつい買い求めた。もうだいぶ前で昨年12月のこと。衝動買い。3か月も前の話をなんで今?というと、そのときの感想っぽいことが下書きのまま、アップされずに残ってたことに気付いたからである。
「MONEY」である。氏の初期のパスティーシュ小説の短編集に「
そばときしめん」「
国語入試問題必勝法」なるタイトルの名著があり、まだ名前が広く知られてない頃の出版で前者は(別に麺類の作り方とかが出てくるわけでないのに)書店ではタイトルだけで判別され畑違いの料理コーナーの棚に置かれることがあったらしい。だから後者の出版の際、本人自身が(国語の入試問題の理不尽さに対するパロディなのに)こっちは受験参考書の棚に置かれるのかしら間違えて買ってしまった受験生にはごめんなさいと、たしかそんなことを当時あとがきか何かに書いていた。今だともう間違える書店員はいないだろうけれども、今度は経済コーナーに置かれちゃうのかねと想起させるようなこの装丁は、かつてのそんな逸話を思い起こさせる。なんとも氏らしいと思ったわけだ。
目次には「東隆文の窃盗 8,600,000」「的場大悟の無限連鎖講 6,700」「重松衣子の万引き 3,480」…と「氏名・犯罪名・金額」を列挙する8つの作品名。なんだか面白そうな、期待させるタイトルに、初期の名作を知る者には(失礼ながら)それよりもずいぶんオチるはずというだいたいの予想はついていたものの、久々に氏の著作を買ってみようと思ったのだった。
2021年9月初刷りの本となるが、2007年1月に刊行された徳間文庫の新装版。だから作品としては15年ほど前のもの。

だいたいの予想は(買う前に)ついたと書いたが、結論からいうとそのまま予想通り。軽妙に読め、文章はさすがに綺麗だから読みやすいといったもの。犯罪小説とあってもいわゆるドンデン返し的な、驚愕するようなラストというものからは遠く、唸らせるようなものでもない。オチもそれなりにつくものもあるけれど傾向として淡々としている。
ただそれは必ずしも悪いことでもない。パスティーシュ(作風の模倣)は基の作者を知らないとそもそもわかり辛い面があり、例えば丸谷才一を真似て、その著作「忠臣蔵とは何か」を模倣した「猿蟹合戦とは何か」という短編の傑作があるが、丸谷才一の癖なり氏特有の独特の文体を知ってたほうがより楽しめるわけで、読者を選ぶマニアックさは一方では善し悪しでもある。ここでは誰でも読みやすいから、病院とかのちょっとした待ち時間に読むには至極最適。私はちょうど
家族の通院付き添いで待ち時間があったからとそこでほぼ読んだ。
借りていたアガサ・クリスティ「検察側の証人」を読み終わって返したと同時に、なんだこのタイトルはと「弁護側の証人」なる文庫本を借りた。
著者の小泉喜美子を知らずにいたから作風などもわからず、
だからタイトルがあまりに符合しててもクリスティへのオマージュなのかパスティーシュなのか?そんなのもわからずにいる。
「検察側の証人」は題意にキモがあったから、クリスティへの意味があるのかなと最初思ってみたが無関係の偶然かもしれず、要はわからない。
約60年前発表の小説で作家は故人である。
借りたのは昨年12月で新年の休み中に読もうとしていたけれど、冒頭の50ページくらい読んだところで止まり、だんだん忙しくなりだしたからいつ読書再開できるかわからなくなった。裏表紙のあらすじみたり少し調べてみたりで、どうやら一般的知名度はないものの「知る人ぞ知る」傑作で伝説的な作品になるらしいが、ネットでやたらに検索すると平気でネタが出てくる(それは避ける)から、それ以上はわからないまま。
前もってblog用に写真を撮っていたから、かつて
「未読推理小説に対し“読んでない”こと」からコラムにしてたなと思い出しここまで書いてみたが、紙媒体掲載の連載コラムとは違ってくるのは当然で、こっちはオチも何にもまったくない。わからないと書くばかり。こんな駄文に数えたら5回も書いていた。
はじめての絵画の歴史 ―「見る」「描く」「撮る」のひみつ―
ディヴィッド・ホックニー+マーティン・ゲイフォード 著/青幻舎 (2018年)
ディヴィッド・ホックニーの名前は勿論知っているけれど、好きな画家だったとかはないし興味もあまりいかなかったから、巨匠であってもその作品となると詳しくはない。でも昨年の個展で私の作品をホックニーを例に出しその類似点から評したかた(美術作家のKさん)がおられ、ドナルド・ジャッドやロスコあたりならわかりはするがホックニーとは最初自分では相当に意外すぎたから、逆に俄然興味が湧いていた。
で、
手にしたのが、作家マーティン・ゲイフォードとの対話で古今東西の“絵
(picture)”を案内し「子どもも大人も楽しめる“入門編”」と掲げられた本書である。
収録の作品図版としては、正確には数えてないが60点強くらい。カバー裏には「160点のイラストを添えて」とあり、すなわちイラストのほうが圧倒的に多いから、スタイルとしては「絵本」みたくなるだろうか。もちろん字の大きい幼児用絵本とはまったく違ってそれとは別種。
図版の掲載はよくある年代順ではなく、2人の話題にあわせてセレクト。歌川広重の隣にはゴッホの油絵がきて、ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」の横にはマレーネ・ディートリッヒ
(個人的には映画「検察側の証人」でとても印象深い)の写真が合わされる。ここでは写真や映画、デジタル画像までをも「絵(picture)」として捉えていて、広重には他にウォルト・ディズニーの映画(のスチール写真)と比較された頁もあり、そんなテーマ付けに軽妙な対話は、多量のイラストとあいまって愉しく読めるといったところ。
さてその作品図版約60点にはホックニー自身の作品も入っており、そのなかの「ペアブロッサム・ハイウェイ」という作品に強烈に目が留まる。
この作品は美術手帖のサイトでもそう紹介されていたが、簡潔にいうなら「ピカソのキュビズムのアプローチを基にした、フォト・コラージュ」となる。
「遠近法をテーマに絵を作っていた」という時代の作品は、遠目にはカリフォルニアのハイウェイを描いた絵に見えるけれど、つぶさに見れば、何百枚もの、多量の写真によって構成されたコラージュとわかる。写真は現地で角度や視点を変えながらの撮影で、ときには梯子に登ったりしながら撮られている。
Kさんの批評に「ホックニーとは意外すぎた」と最初書いているが、それが過去形なのはこの作品に因があって、約20年前にわたし自身、同じようなアプローチを小品でやったことがあるからだ。厳密に言えば「同じ」ではなく視点はそこから反転していて、多数の写真で構成するのは同じだがそこにある風景自身のほうが(別の切り口によって)変化しコラージュされていくという作品。
ちょうど2000年がプレミアムな年だからとその年に始まり数年間、正月に“現代美術作品を売ろう”と「現代美術小品展」をおこなっていたことがあってそこへの出品小品である。Kさんはおそらく別の論点で言われたはずのホックニー云々が、自分なりにもどこか符合してきて、面白がっているというわけだ。
その作品は当時ものすごく気に入っていて、いまも初代バージョンが、入れた額のほうは20年経ってちょっと古びながらもまだ手元にある。制作した発想の原点はそもそも第1回「大地の芸術祭」にあり、同芸術祭から生まれたギャラリー湯山に飾るというのも何かの縁だよなと思えて、
来年の展覧会にこっそり出そうかなと考え出している。
さて、いま借りている本2冊。フェルメールと、
ビリー・ワイルダーが映画にした「検察側の証人」の原作戯曲。いずれも文庫本。
検察側の証人のほうは映画版がすこぶる面白く、かつ、その60年後に作られた
BBCテレビドラマ版がとんでもなく面白くなかったことの反転合わせ技で、戯曲で書かれたアガサ・クリスティの原作を読んでみたいと思ったからだった。
小林頼子著の「フェルメール」のほうも読みたかった理由があって、ファン・メーヘレンによるフェルメールの贋作事件の顛末を追ったフランク・ウィン著「私はフェルメール~20世紀最大の贋作事件」を小林頼子氏が監訳していて、本自体も面白いものだったが、監訳者として10ページの長文で記されていた「あとがき」がたいへん興味深いものだったから。
2007年6月の執筆と明記されたそのあとがきには、ウィンの著作への論考のほかに当のフェルメールについても簡潔にまとめられていて、「現在、フェルメールの現存作品と考えられているのは36点から32点である」こと、4点の幅が出ていることに「すなわち4作品については専門家間でフェルメールの真作かどうか判断が分かれている」ことが記されている。日本にもきたことがある作品「ダイアナとニンフたち」は多くの研究者が真作としているが、氏は「(私の)この見解はかなりの少数派に属している」と但し書きをつけたうえで現存真作とは見なしてないと書く。
その理由は何だろう。興味を惹かれたのは「かなりの少数派」(別の書によれば今世紀初め以降明確に疑念を表明した研究者は他に1人)という点もあるけれど、氏の文章の明晰さに加え「ダイアナとニンフたち」に私自身そうピンときてなかったこともある。理由は(参考文献として挙げた)拙書を参照とされていたから、それで本書にとなったわけだ。
正確には参考文献たるその“拙書”は直接的にはこの文庫版ではないけれど、いつも推理小説を貸してくれるKさんがフェルメール好きで(当該部分の記述もある)この本を持っていると聞き、借してもらったという次第。
この本の成立過程を書いておくと
大著「フェルメール論 神話解体の試み」(八坂書房、1998年)が刊行されてから10年後に、同書から作品分析に関わる部分を抽出し一部文庫化。それが「フェルメール論」の内容の1/4程度を収録した文庫本の「フェルメール 謎めいた生涯と全作品」(角川文庫)で、それからまた10年後の2018年に、別レーベルの角川ソフィア文庫に「フェルメール 作品と生涯」として再録されたのが本書となる。なので角川文庫版の改題と言う位置づけだが、再録にあたっては14ページほどの「新版補論」の追加のほか、加筆等もされているらしい。
ゴッホは拳銃による自死というのが定説だが、その現場の目撃者はおらず、凶器の拳銃も当時探したものの発見されず(※70年後の1960年頃に、
自殺現場とされる場所からさび付いた拳銃は見つかる)、自らを撃ったにしては不自然な点もあってミステリアスなことから、昔から他殺説がある。その他殺説をモチーフにした本2冊。
・
ゴッホは殺されたのか -伝説の情報操作- (朝日新書/朝日新聞社) 小林利延著
・
殺されたゴッホ (小学館文庫) マリアンヌ・ジェグレ著
いずれも最近読んだものではなく小学館文庫「殺されたゴッホ」のほうはたしか昨年で、そのときの読書メモがPC内に残っていたから本日のblogはそちらから。ちなみに朝日新書のほうは相当前に読んだもので、
すっかり忘れていた9年前の記事を見つけたので2012年のこととわかった。PC内のメモは
毎月執筆していた情報紙の連載コラムのネタ切れ時用に残していたものである。
自殺が定説だから“他殺説の定説”という言い方もヘンだけれど、2011年に美術史家スティーヴン・ネイフと作家グレゴリー・ホワイト=スミスの2人が唱えた説が他殺説のなかの定説にとなるのだろうか。同説は
ウィキペディアの「ゴッホ/死」の項にも簡単に触れられているのでどういうものかは興味あらばそちらを参照。
その説は2人の著した「ゴッホ伝」のなかで示されたもので、その大著は「
ファン・ゴッホの生涯」として邦訳もされている(松田和也訳、国書刊行会、2016年)。
フランスでも2013年に仏語版が発表されて話題となり、それに触発されて書かれたのがマリアンヌ・ジェグレ「殺されたゴッホ」となる。
その訳者あとがきには「(ゴッホ伝に衝撃を受けて)マリアンヌ・ジェグレ自らも調査を重ねたうえでゴッホの最後の2年間を小説としてまとめあげた」とあり、小説であることの強調がなされつつ、ゴッホは自殺ではないと(ネイフ&ホワイト=スミス説にたち)描かれる。
ここでは小説であっても決して「推理」小説ではないことは肝要で、ゴッホの最後の2年の物語としての読み応えがある。
一方、小林利延の「ゴッホは殺されたのか」。こちらで呈示される他殺説は、他殺は他殺でもその内容は別物で大きく異なるもの。他殺というなら犯人は誰かも謳わなくてはならないが、犯人も異なった人物をあげている。
著者は芸術理論の大学教授。ゴッホの場合は書簡集、いわゆるゴッホの手紙が遺っており、ゴッホ研究のバイブルで唯一かつ純正な史料となるが、著者は新たな視点でそれを読み直して、さらに“書簡集”に見られる非収録や削除等の、“そこになぜか無いこと”からも推理を展開していく。
証言や手紙をひとつずつ検証するかたちですすめられていくから、マリアンヌ・ジェグレとは違って形態は小説ではない。しかし大胆な推理、犯人の意外性、意外な中に潜む犯行の合理的(に思わせる)理由といった一連のスリリングさは、推理小説よりも推理小説らしくある。小説では決してないが、一面、よく出来た“推理小説”として捉えても面白く、
実際個人的には
“最後近くのあの一行で世界が反転する”とどんでん返しミステリーの代表傑作のように言われる綾辻行人「十角館の殺人」よりも、結末に驚いた。ネタバレになるからと、誰が犯人とされたとかはここでは書かないけれど。
因みに追記しておけば、「美術史は推理小説だ」と謳われるエピローグの日付は2007年12月になっていて、本書は2008年2月28日第一刷発行。2011年の上記ゴッホ伝よりも早い。
夏樹静子の「77便に何が起きたか」なる短編集からまずは2作品を読み…なんて書いていたのは、もう1年ほど前。その続きをすぐと思いつつ忘れていたから今更になったけれども、同書収録からもう一つ挙げると「ローマ急行殺人事件」。こちらもなかなかよくて注目作である。
アガサ・クリスティ「オリエント急行殺人事件」へのオマージュとして書かれた作品で、ただし堂々とそのネタばらしをしているから、オリエント急行を未読のひとはお気をつけのほど。
オリエント急行殺人事件は鉄道の客車一両が舞台となるが、こちらのローマ急行殺人事件は客車内のひとつのコンパートメントで殺人が起きる。区画されたなかでの殺人事件とすれば同じだしシチュエーションも同じだから、これってオリエント急行と同じトリックかね?と頭に浮かべさせておいて、「オリエント急行殺人事件の犯人は●●だった。今回も同じく●●のようにも見えるが、しかし▲▲の理由で違う」と推理が展開されていく。
面白く読んだけれども、ただ気になるのはやっぱりクリスティのネタばらし。今やテレビドラマ化などで一般へも知られるようになり、もう古典であって、誰もが知るという扱いになるのかもしれないけれど、初出誌が昭和51年10月号で40年以上前のことだからねぇ。と、いくらオマージュといっても推理作家があからさまにやっていいんかななんて心配が過ったわけだ。でも最近読んだ井上ひさし「
四捨五入殺人事件 」でも奇しくも同様オリエント急行殺人事件のネタばらしをしていたから、作家自身は案外気にしないものかしら。
まぁ例えば「
十角館の殺人では犯人が■■だったが、ここでは…」という小説にしても成り立ちはしないだろうから、クリスティの偉大さということではある。

最近古書店で買い求めた文庫本「どんでん返し」。笹沢左保である。
1981年刊行だからもう絶版なのかもしれないし、
中町信の復刊フェアがいまなされるように書店でも置かれてるのかどうか知らないけれど、タイトルが単刀直入で、いや、ネットには“どんでん返しミステリー小説ベスト100”といったどんでん返しランキングのサイトが溢れている現況からすれば、あまりにも単刀直入に過ぎる表題である。
推理小説をよく貸してくれるKさんはいわゆる「どんでん返し」ものが好きだからと、たまたま古本で見かけた直截すぎるタイトルに面白がりたまにはさしあげようかなんて買ってみたわけだ。まぁ正確に言うならば、どんでん返しよりも、私としては帯に書かれている「全編会話文のみ」という構成のほうに魅かれたことが大きい。全6話収録の短編集という形態で、2人の会話文だけで(他の描写文は入らずに)すすむ。
ネットにいま出てくる「どんでん返し」ものは、たいてい
綾辻行人の「十角館の殺人」を代表作に挙げるように、叙述トリックの場合が多い。それは結局著者が読者を“騙す”スタイルになるから、十角館の殺人で“最後近くのあの一行で世界が反転した”と言わしめたように、派手などんでん返しがしやすい。
綾辻行人が同書でデビューしたのが80年代後半で、推理小説の分野で「新本格」という言葉が出るのもその頃以降だから、1981年刊行の本書の「どんでん返し」ぶりは相当に異なるもの。だからタイトル自体が今となっては逆接的どんでん返しになってしまっていて、どんでん返しと謳っているのに(今の感覚の)どんでん返しにはとうてい至ってなく、そこにどんでん返しをくらうわけだ。
話としては、中には小学生が出すなぞなぞのようなオチで終わった作品(皮肉紳士)もあるにはあるが、ある程度まとまっていて、軽く読めるのはいい点。会話文のみというのはどんなものかと思ってたが、さすがうまいもので意外なほど読みやすい。なのでタイトルに一切期待を寄せず、気にしないで読むというのが正解である。そうすると読後感も悪くはない。

因みにいうなら、帯の「圧倒的に騙される」というのも逆接ひっかけで、ここまで連呼してしまうと、13個も「騙される」と謳った帯に逆に騙されるという寸法になろうか。
GWでお休みモードだからではなく、このご時勢の外出自粛で大掃除してたら出てきたというわけでもないが、
昨日に続いてまたもや“マンガ”。
雑誌連載は2015年頃なのでいくぶん前の、見方によっては少々マニアックなものだが、いぬにほん印刷製版部というタイトルのマンガがある。かの大日本印刷ではなくて、「犬」日本印刷である。

主人公はそのいぬにほん印刷の製版部に配属された新入社員、紙谷さんという“紙好き”の女性。4コマをベースにしたギャグマンガの体裁をとり、印刷会社の日々の仕事でのドタバタが描かれていく。いわゆる印刷業界あるあるネタもちりばめられて、私は面白く読めたのだが、版出しやら面付やら色校やら印刷用語がやたら出てくるさまに、いつも推理小説を貸してくれるKさんに試しに2冊貸してみた。業界とは無縁なKさんは印刷の知識も無いだろうから、はてどう反応するかなんて好奇心がふと湧いたのだった。
結果は、どこにツボがあるかわからないもので面白く読んだらしい。ケタケタと笑い、(1巻と2巻だけでなく)もっと読みたい、もっと持ってないのかとまで言ってきた。まぁリクエストされても全2巻だからこれ以上持ちようはないけれど。
いぬにほん印刷製版部 1巻 (まんがタイムコミックス)
いぬにほん印刷製版部 2巻 (まんがタイムコミックス)
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