長岡小嶋屋CoCoLo長岡店、
配管工事の続報です。
今日お店に行き様子を見てきましたが、復旧(再オープン)には少し時間がかかり、3月10日頃になりそうです。
そのあとカフェギャラリーFATOにも立ち寄ったので、そちらの写真を下に。
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フェイツコレクションpart2 - 小山まさえ・戸川淳子・中田歩展
展示作品リスト
「生きづらさ」を生きる、と冠した雨宮処凛さんのエッセイが、新潟日報紙に時々掲載されているが、24日(金)の紙面で『福島の「内部分裂」』について書かれていた。いつもながら、雨宮さんはうまく(わかりやすく)書けるものだと思いながら読んでいた。
原発事故による「補償」金をめぐっての不公平感が福島のなかで充満しているとのこと。原発近くから(福島県内の他市へ)避難してきた人々が補償金を手にして(放射線量も少なくないのに補償金はそれほど出ないその都市で)酒やパチンコを楽しんでいると批判する地元タクシー運転手の声があるそうな。事業をしていた人にはいくら入ったとか、「だけど○○さんは少なかった」とか、「お金」をめぐって損得のうわさが駆け巡り、多くの人が疑心暗鬼のなかにいるらしい。画像は小さくて見づらいので、肝要なその結びのところだけ引用しておくと、
憎むべきは、「得をしてるっぽい近くの誰か」では決してない。原発という必ず犠牲を必要とするシステムや、それに絡むさまざまな利権、誰も責任を取ろうとしない構図。問題の大本から決して、目をそらしてはいけないと思うのだ。
とある。
この最後の締めは、流石だと思う。
ここからさらにもっと言ってしまえば、利権にあずかっている人たちは「問題の大本から目をそらさせたい」と考えたいから(私がその立場だったらそう思うから)、逆にいえば「憎むべき“誰か”」をかませ犬のように仮想敵に仕立てれば都合がよいことになる。だから最近気になっているのだけど、「東電が悪い!」となんでもかんでも東電の一言で済ませたりするのはちょっと注意が必要のよう。 なんでもかんでも「(放射線に神経質なひとの)風評」に置き換えてしまうのもそうだけど。