10年前といえば、その年まで長岡市内で運営していたカフェ&ギャラリーZenの閉店というのが一大トピックであり、今年の前半くらいにも、十年一昔と思い出したかのように当時の写真をアップしていた↓。
http://atelierzen.blog.fc2.com/blog-entry-1772.html
で、同店に関することをまず何か記そうかと思ったのだが、五十嵐祥一さんが2001年の周年記念冊子に書かれた「はなぞのカフェ」という文章が出てきたので、そちらを転載することにした。
氏は2004年に44歳の若さで(舌ガンで)急逝されたのだけど、最後に会ったのが、私が企画し、参加出展していただいた2003年「トシワスレ展」(at ギャラリー沙蔵)だから、ちょうど10年前。
そのとき本人はすでに自分の病気のことを知っていたと、亡くなられたあとで奥さまから聞いた。2003年の展覧会で私に対して最後に言った言葉は、特に凝ったものではまったくなかったし、そのときのそんな事情なんて知らなかったからふつうにスルーしてもよさそうなもので、洒落た言葉を使っていた氏にしてはなんとも“ふつう”だったのだけど、不思議に心にずっと残っていて、今でも覚えている。実に不思議だけど、案外そういうものかもしれない。
なんて言ったのかは敢えて書かないけど。
久々に氏の文章に触れ、「鼻園アート展」なんていったところを、企画してみたい気分だ。

はなぞのカフェ
五十嵐祥一
ハナこそ人生を解く鍵ではないかと、41年目の人生でその謎解きに成功したすがすがしい日々を送っている。
それは、先日の地下鉄で商談に向かう途中、新しい仕事を手掛ける不安をかかえていたときだった。頼れるものは鞄の中のマニュアルでもなく、自分の鼻だけしかないと気づいたのだった。だれのものでもなく自分自身の鼻があるという事実、そしてからだの、一番先端にあり、人生を切り拓いていく舳先のようなのだ。風が鼻で分れて体をすり抜けていった。
この発見に嬉しくなり、今春、幼稚園にはいる娘に、「人生は鼻が肝心なんだ、ケンカするときも口唇ではなく鼻をとがらせるんだよ」と教える。娘は「じゃあケンカしよう!」といって鼻と鼻のとっくみあいになってしまった。娘は遠慮がないので結構強いのだ。
今、私は東京のコーヒーショップの混雑の中で、長岡のカフェギャラリーZenのことを考えている。あの店では、「僕の鼻はとんがっていたなぁ」と思い出す。窓ガラスを通過する陽光、コーヒーの匂い、食器や集う人々の声、音楽と壁の絵たち、それらが混沌と、しかし美しくひとつに調和して、私の鼻の先に一瞬止まってすべっていく。そのすべり具合もまたよかったのは、鼻の油のせいだろうか。喫茶店は、こんなふうに自分の鼻をとがらせる場所なのではないだろうか。そして、その先っぽに小さな花が咲くとき、人生の意味を手にできるかもしれない。
そんな「鼻園」であり続けて欲しい。
