
銀座の奥野ビルに入っているギャラリーカメリアのサイトに載っていた、
「コロナの今、画廊について思うこと」なる一文を読んでいた。美術評論家・樋口昌樹氏による、ポストコロナの社会へ向けての応援メッセージという形態の署名原稿。
そこにある、自粛生活で(これまで以上にネット通販が盛んになっていくことはまず間違いないだろう中で)画廊はどうなっていくのか? ネット通販が美術品売買の主流になるとは、ぼくには思えない…という点は、ちょうど昨日知人の画廊主と「作品のオンライン販売」について話をしていたところだった。作品はいわゆるネット通販スタイルにはとても馴染み辛いけれど、でもポストコロナ社会ではそう単純に割り切らず、そのなかで考えられることもあるのではないかという視点。そんなことを考え、話にしていた。
アトリエZenではblog等に細々載せた展覧会カタログとかが稀に売れたりするけれど、これまでそう本格的にやってなく、思考をもう少ししてみたいところ。
また樋口氏の「アートとは単なるモノではなく、作品と鑑賞者との間に生成する、ある種の化学反応のようなもの」という比喩はまことにその通りと思ったが、それを読みながら故五十嵐祥一さんの約30年前の一文が頭に浮かんだ。こちらは、
モノではなく夢であるとし、「それはけっして空想されず、想像の契機として惣然と変貌する」と記している。
さて画像は銀座の奥野ビル。以前載せたとばかり曖昧な記憶で思っていたら、
銀座で一時間ほどの空きが出来たから奥野ビルに行ったという一行だけで今見たら「画像はひとまず後回し」なんて書かれている。頭から抜けていたからずっと後回しだったのねと、そのとき(二年前に)撮っていた同ビルから、せめて外観をと1枚取り出してきたわけだ。けっこう他でアップされている超旧式エレベーターをはじめ、内部のほうがよりアレなんだけどね。
「77便に何が起きたか」と題した夏樹静子の短編集の評判がいいらしい。
そんな話を偶然見かけて、だいぶ前に長岡の古本屋で新書版同書を見つけ面白そうなタイトルに思わず買っていたと思い出し、物置の奥から取り出してきた。交通推理小説という、なにそれ?というなんとも時代がかった言葉がついている。
入手したのは10年以上も前だけれど読んでなかったのだ。
新書版は上下二段組みになっていて、また昔の本だから、いまのものと違って文字も極端に小さく読み辛く、未読だった理由もおそらくそのあたりかなと思いながら、まずは表題作ともう一遍、「特急夕月」と題された20ページの小品を読んでみる。
特急夕月は、推理小説のタイトルからすればもう想像がつく通りで、おおむねで分類すれば列車の時刻表を使ったアリバイミステリーものになる。そう書けばふつうだけれど、ここで異色というか特徴的なのは、「時刻表駆使して綿密なアリバイトリックを考えても実際に列車が遅延したらダメぢゃないか」という、そもそも的な観点を組み入れたこと。それは言わない約束でしょ?とされていたものをメインにしちゃったわけである。
すなわちアリバイを構築して列車内で殺人を企てようとしている男がいて、しかし犯行寸前突然のダイヤの乱れに会ってしまい右往左往する、そんなさまを描いた作品。作者自身あとがきで「意識してコミックなタッチを試みた、おそらく最初の作品」と書いているようにコミカルな味がある佳作で、夏樹静子がこうしたものを書いていたとは知らなかった。
推理小説で肝心な最後のオチも、単純なことだが言われてみればたしかに…と言う推理小説的盲点みたいなところをうまくついていて、加害者と被害者との視線の交わり具合が面白くて、いい。

77便に何が起きたか - 夏樹静子トラベルミステリ傑作集 (中公文庫)
なんだかしつこく載せているように思うけれど、まぁこれで最後になる気もするからと「
今日の旧長岡現代美術館」。正確に書けば“昨日”夕方の光景。外壁レリーフの取り外しは今週完了したもよう。

下はその数日前、最後の1スパンの作業中の光景。こうした作業を注視するひともそういないと思っていたが、マイスキップにも寄稿していた知人のIさんも、外回りの仕事中によく見られていたようだ。氏に昨日たまたま会ったらそんな話を聞いた。

