
長岡造形大学のキャンパス内でおこなわれていた「2023年卒業・修了研究展」は、厳密に書くなら「修了」のほうは大学院修士課程修了者を指す。大学院の博士(後期)課程にも修了者が2人おられ、そちらは博士ということで特別感を持たせ別会場に会期も長く設定されていて、大学からもほど近い新潟県立近代美術館のギャラリーで現在も開催中。
キャンパスでの卒展は美術館休館日の月曜に行ったため合わせて廻れなかったからと、本日はそちらに。いわゆる卒展期間を外した平日のほうが混雑せずにゆっくり見れるはず、というヨミもあった。
で、こうした展示では作品写真を撮れない(撮らない)ものと想定しているので、美術館に着いて
前回同様“アリバイ”的にすぐ撮ってみたのが駐車場からの上の画像。寒い日だった。
長岡造形大学大学院造形研究科 博士(後期)課程修了作品展
竹丸草子/竹本悠大郎
会期:2月9日(木)~19日(日)
会場:新潟県立近代美術館2Fギャラリー
2人の研究テーマをリーフレットから転載すると、竹本悠大郎「
彫刻の〈実在論〉-素材による作り手の思考とイメージの生成-」、竹丸草子「
コーディネーターの場づくりの視座と意味生成-アーティストワークショップを事例として-」。
作家(作り手)でもある竹本さんは研究論文とともに修了作品として制作した大型の乾漆彫刻数点を展示し、一方竹丸さんは論文の呈示で、標題の研究のほかにもこれまで他誌等で発表したものなどが資料として置かれていた。座談会での(竹丸さんの)発言記録もあり、ザっと眺めていたらその中で特に、視覚障害のある人へのアート教育に関した研究資料にとても興味を持つ。
「芸術とは見えないことを見えるようにすること」であり、そうであるなら「視覚に障害を持つ人、特に生まれた時から見えない人にとって、視覚芸術である美術を学ぶこととは何をすることなのだろうか?」という問いかけ
(by 群馬大学 茂木一司氏「インクルーシブアート教育の理念と当事者性―視覚障害を中心に―」の“はじめに”から)が、自身の制作に対しても刺さってきた。逆説的ではあるが、作品の大元の素材たる「見えないこと」への意識を問うことにも通ずると思えたからだ。

ここのところ立て込んでいて時間もいまちょっとタイトだからと、長岡造形大の今回の「卒業・修了研究展」には私の企画に参加等している数名のものを見る他はサっと見ようと臨んでいた。まさか
タバコ屋観察を研究対象にする学生が出るとは思ってもみないからだ。blogにもただ「行きました」程度で簡潔に記そうと思っていたから、アリバイ写真でもないけれどblog用の1枚をもう先に、会場に入る前のアプローチ部分で撮っていた。それが上。おクラに入れずに載せることとした。
つい先日サントリーのプレミアムモルツに対し、プレミアムと冠のつかない
本来“ふつう”なはずの「モルツビール」について(まぁどうでもいいような話だよなと思いつつ)書いた。店頭で見ることが皆無だったから通常店頭販売ルートにはのってないものと思っていたが、県内の他市在住の知人から、とある酒店に置いてあるのを見つけたとメールをいただいた。なるほど、書いてみるものである。情報ありがとうございます。
その酒店チェーンは長岡にもあり、そう言われれば近年行くことが無い。各店によって品揃えは違うかもしれないけれど今度覗いてみようと思う。
この週末、金~日曜の3日間は、額工房との打ち合わせだとか事前に入っていた予定の他にも、急ぎのものとかなんだかんだと急に入り込み、金曜から始まっていた長岡造形大学の卒展に行けないでいた。で、“最終日は午後1時終了”とアナウンスされる本日最終日にいそいそと行ってきた。

情報紙に長岡造形大関連の記事を書いていたときは卒展を数日かけて観る(取材する)こともあったけれど、今回は特に時間も限られているし、ある程度サっと見るつもりで入ったが、まず入口冒頭の院生(光延咲良さん)の作品に引っかかる。
金属板を溶接し箱状に連続させて長く構成したものを、入口ホール(屋内)とホール手前の屋外に対称させるように置く。屋外のほうは雪に埋めたのではなくて、設置だけは2週間ほど前にしていて、その後の降雪によって自然に隠れていく(日々変化していく、あるいは豪雪になれば完全に埋まりながらも雪が梱包する微細な“かたち”で存在をアピールする)ことを狙ったようだ。ちょうど作者のかたが作品近辺に居て、その佇まいがひじょうによかったこともあってつい声を掛けてしまったら、
私が3年前に企画した鉄彫刻展に来場されていたかたとわかり、要は初っ端の第一作品から時間を費やしたわけである。
そのすぐ隣の比較的広いギャラリースペースでは、監視員当番をしていた学生が
昨年ボントーンに作品を展示した学生(藤森ゆうかさん)で、またそこでも作品説明を丁寧に受けたりで話が弾む。藤森さんは七宝作品で、作品そのものも綺麗なのだが、背景となるコンクリート打ちっ放し壁を巧みに生かした「展示」の綺麗さも秀逸。小さい作品でさりげなくおさめているから一般には気づかれ辛い部分だが、展示経験の多い人が見ると(難しさを知っているから)ちょっと驚く。
サっと見るつもりがそんなかんなで最初から時間かかっていたが、きわめつけが標題にも入れた「なぜそこに“たばこ”屋が」である。長い廊下にそれぞれの研究のパネルが展示されるなか、上の画像のように設置されたタバコ屋恒例袖看板には、
たばこ“屋”の観察マニアとしてはもう当然のように、遠方からでも「あれはなんだ!!」「なぜそこに?!!」と反応する。
「
街角のたばこ屋さんを訪ねて-たばこショーケースの意匠と地域性に関する研究-」(柳珠実さん)で、建築・環境デザイン学科の「環境計画保存コース」での研究となるようだ。私にはドツボで、たばこ屋観察が大学の卒論になったのねと感慨深く、そこに置かれた論文と、論文よりも分厚くまとめられた「付録」の写真記録集も拝見したわけだ。
論文にはたいてい末尾に参考文献一覧が記される。かつて
博士課程の研究論文に私がマイスキップに書いた現代美術の記事が(特に事前に知らず)参考文献等に記されていたことがあったなと思い出し、マイスキップ2018年4月号の企画特集で
私の書いた「街角のタバコ屋を巡る」が今回も出てきたらどうしようと思ったけれど、要らぬ心配。そんなものは出るわけはない。
自宅に戻り当該2018年4月号の記事をみたら、なんだかエッセイを気取り過ぎていて(いま読むと)どうもよろしくない文章で、研究論文とはえらく違い過ぎる。でも柳さんの撮った写真と私のそれと、同じところを狙ったものもけっこうあって、
やっぱり鳥越商店の店頭ショーケースにはいくよねーなんて言いながら面白がっている。
下の画像は冒頭に書いた、雪自体も要素に組み入れて対称展示した屋外作品。
[後日談(雑談の追記)]2023-03-12 タバコ屋研究その後
数日前にアップした佐藤秀治氏のレビューvol.4。その
「虚と実のカンバス間を往来 ~外山文彦展CANVAS」と題された、15年前の新聞に掲載された原稿についてメールで感想をいただいた。
そこには「
作品が発する内なるパワーをきちんと受け止めた論考で流石。外山作品の見方も深度が深くなりそうだ」といった内容が書かれていて、氏の洞察力というのか鋭い視方を(原稿は古くとも)“いま”の視点で捉えなおしてみたいと思っていた私には、我が意を得たりといったところだった。
私自身はと言えば、いま読み返すと「作者の関心はそこにはない」とズバリ指摘の12文字がキーに見え、惹かれている。しかし15年前にリアルタイムで読んだときは、もう記憶は定かでないがたしか違う捉え方をしていたはずだから、面白いもの。
前回載せた展覧会DMの写真は当時長岡市内にあった「ギャラリー・イーズ」での撮影で、上の画像はそのときの別アングルから。せっかくだからと古いデーターを探し出した。
余談的に書けばこのインスタレーションは自主的にやった作品ではなく、展覧会のヒトコマでもまったくなくて、テレビ局(TeNY)の放送用としてディレクター氏の求めに応じておこなわれたという、つまり「そのとき」「その場」だけのもの。
放送は2007年11月6日の夕方のニュース特集。いま思うに相当に異例なことで、なぜそんなことになったのかを情報紙のコラムに書いてたはずだから、気が向いたらそのうちそうしたことも載せようかななんて思ってみた。

サントリーのビールに
プレミアムモルツがあるけれど、かつて「サントリー・モルツ」と言ってた要はプレミアムではないほうの、“ふつう”のモルツビールは無いのかしらと思ってみる。スーパーなどの店頭でいま見かけることは一切無いからだ。プレミアムになるとプレミアム分の数十円が加算されるし、モルツは美味しかったという記憶の好印象があるから猶更だ。
ネットで調べると現在は店舗ではほぼ売ってなく、ほとんど通販専用品にと化しているようで、割と安価に出ていたから試しに買ってみた。写真を撮りつつ飲んでみるとけっこう美味しい。プレミアムではなくとも麦芽100%ビールだしね。
ただこの缶のデザイン。なんでローマ字に直してそんなことわざわざ入れるのか知らないけれど「UMAMI」って大き目に書かれていて、なんだかDASAIよねと、
現在は死語なのかもしれない言葉をつい発してしまった。銅色はいいだけにこちらも猶更。
昨年11月から
佐藤秀治氏のレビューと称したカテゴリーを設け、
氏が新聞等に発表した原稿をひとつの記録としてささやかながら掲載しているが、今回はそのvol.4。(15年前の記事です)
虚と実のカンバス間を往来 ~外山文彦展CANVAS
評:佐藤秀治 (美術家)
●2008年7月11日 新潟日報文化欄掲載
「新しい表現」に携わることは、新作での発表が常であると思われ、そこに顕著な変容がつかみづらく期待を裏切られたと思うことがある。つまりせっかちな人もいればゆったりと歩みをすすめる人もいるのに、鑑賞者は依然として高所から作品を吟味すること、「いい悪いの判断」に執拗に固執することがある。作者の求める方向や課題、こころの揺れに波長を合わせ謙虚に読み取ってみたいものである。
外山作品の印象は、ぶれない仕事の継続である。一見しただけでは前作との異なりを見いだせないくらいその具体的変化は薄い。作者の関心はそこにはないということである。作品構造は、カンバスの裏地を選び支持体としていること。さらに塗り込まずに生地を見せるところと満遍なく彩色した二種二面の分割再構成画面である。常に複合面であるということ。一作品はおおむね幾つかの単体カンバスでの組み合わせとなっている。この点だけでも数年間変わらず取り続けてきたスタイルである。面白いのは異なる面の主従の関係を決めないこと、観る側にそれを委ねているところである。
「モーニングス」シリーズを例にすると、四つの単体から構成されていて、その一部は同型を反転し再構成していることに容易に気付かせられるのである。そこでいや応なく自分の強い意識でさらに元に戻して見ようと試みる。作者が提供した実のカンバスと仕組んだ虚のカンバスの間を往来することになる。今作品の作者の意図は他に二点仕組まれている。会場でその揺れを読み取っていただきたい。
記事index/
2022.11.03
vol.1
蔵ISM・クライズム-蔵の中での現代アート-伊藤希代子、関根哲男、前山忠(2004年9月14日 新潟日報文化欄)
2022.11.27
vol.2
蔵・展―5人の手法(2003年9月1日 新潟日報文化欄)
2022.12.29 記録としてアップすること、および氏の一作品 (年末の“まとめ”記事として)
2023.01.18 vol.3
舟見倹二の軌跡展~油彩の変容から~(2009年3月30日 新潟日報文化欄)