最近、五十嵐祥一氏が20年以上前に書いた文章を思い出し、その意味を再度考えている。氏は同郷の4年先輩で、私にとってキーパーソン的な存在だったが、8年前の秋に若くして急逝した作家。新潟絵屋で追悼展を企画した際にも展のテーマとして使用したその一文を、同展DMと会場写真とともに再掲してみた。

私の庭には、今年の夏には毎日のように、夕顔がたくさんの花をつけた。春に、妻と買い求め、蒔いたのだ。そのおおくの白い花の、かれんさというか美しさを写真におさめようと思ったが、夕暮れの光は弱く、フラッシュの使い方がわからなかった私は長時間露出を行い、その結果手ブレのプリントが手元にのこり、夏は過ぎた。
私の部屋には、作りかけの絵の材料が床の上にある。作品は美しさを前にして醜く、私の気持ちを逆撫でする。作品はモノではなく夢である。それはけっして空想されず、想像の契機として惣然と変貌する。だから私はプランや設計図を持たず見積書も提出できずに、ただその前にいる。作品をつくることは日常生活のあるべきモラルを再考させる。つくられたシステムを強要され許容していることに気づき、金儲けだけが生活のすべてではなく人間のすべてではないという当然のことを知る。
花は生きるために咲き、またそれ自身が生そのものであり、私はそれを美しいと思う。作品はだれかの生を前提とするコミュニケーションであり、それはシステムではないので私は永遠にたどりつけない地平を志向して、手と眼で思考する。
(五十嵐祥一,1988年11月27日)
ノプラマ・アート「ラフィン・ザ・ヌード」展カタログ掲載文より抜粋

(撮影:反画工房さん)
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